C.G.ユングと石 -石と人とのふれあい-

石材店の新しい可能性を探る

『ユングと石』について
日本石材工業新聞記事に掲載されました
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カール・グスタフ・ユング(1875-1961)と石

C.G.ユングと石 -石と人とのふれあい-

カール・グスタフ・ユング(1875-1961)はスイスの精神医学者で、分析心理学派とも「ユンギアン」とも呼ばれる臨床心理学の一学派を創始した人物です。

ユングは、今では日常語にもなっている「外向・内向」という心理類型を作り上げたことで知られます。「コンプレックス」という心理学用語も、もともとは彼の言語連想実験研究を通して一般的になりました。

創成期の精神分析運動におけるユングとフロイトとの協力関係と、その後の決裂のエピソードは広く知られています。特に、ユングの患者でありユングの愛人でもあったザビーナ・シュピールラインを交えた三角関係は最近映画化もされました。文芸評論家である小林秀雄の絶筆「正宗白鳥の作について」が、このフロイトとユングとの決裂について書いている途中で終わっていることも印象的です。

ユングの心理学は、人間の心理を無意識の働きから説明する、いわゆる深層心理学と呼ばれる流れに属するもので、「元型」「集合的無意識」「共時性」といった独特の用語を用いて、人間の様々な心理や、心と環境世界との関わりについての考察をしています。 ユングはこの深層心理学的知見を元に、人文科学者・宗教思想家としても独創的な仕事をしました。易や禅、クンダリーニ・ヨガ、チベット『死者の書』、密教のマンダラなどの東洋神秘思想についての研究、キリスト教研究、錬金術の研究、さらには心霊現象からUFOまで幅広く研究を行い、カウンターカルチャーや芸術文化への受容とも相俟って、20世紀において幅広い思想的影響力を持った人物のひとりです。

このユングですが、実は石工としての面も持ち合わせた人物です。石工の資格を持ち、ギルドにも加わっていたほど本格的なもので、その意味では私たち石屋の同業者ということになります。彼が自分で石を積み上げて建てた別荘や、彼自身が制作した様々な石の彫刻が、今も残されています。

ユングは石と深い親和性を持った人物でした。彼は幼い頃から石に親しみ、人生の重要な節々において石のモチーフと対峙し、石を積んだり刻んだりすることを通して様々な内省と自己成長を行っていきました。ユングにとって石との関わりは、生涯にとって無くてはならない重要な位置を占めています。 石を生業としている私にとって、ユングと石との関係は、石と人との関わりを考える上で示唆するところが大きく、自身の行っている仕事の意味を改めて考えさせられるものです。以下では、ユングと石との関わりについてご紹介していきたいと思います。

村上春樹『1Q84』のユング

石工としてのユングについては、村上春樹さんの小説『1Q84』BOOK3のなかでも触れられており、この小説を読んだことでユングと石との関わりを知った方も多いのではないでしょうか。村上春樹さんは、ユング派分析家である河合隼雄さんと対談も行っており、ユングについての造詣が深い作家です。 以下、『1Q84』BOOK3より、ユングについて書かれた箇所を引用します。

「…ところでカール・ユングのことは知っているか?」 牛河は目隠しの下で思わず眉をひそめた。カール・ユング? この男はいったい何の話をしようとしているのだ。
「心理学者のユング?」
「そのとおり」
「いちおうのことは」と牛河は用心深く言った。「十九世紀末、スイス生まれ。フロイトの弟子だったがあとになって袂を分かった。集合的無意識。知っているのはそれくらいだ」
「けっこう」とタマルは言った。
牛河は話の続きを待った。

タマルは言った。
「カール・ユングはスイスのチューリッヒ湖畔の静かな高級住宅地に瀟洒な家を持って、家族とともにそこで裕福な生活を送っていた。しかし彼は深い思索に耽るための、一人きりになれる場所を必要としていた。それで湖の端っこの方にあるボーリンゲンという辺鄙な場所に、湖に面したささやかな土地を見つけ、そこに小さな家屋を建てた。別荘というほど立派なものじゃない。自分で石をひとつひとつ積んで、丸くて天井が高い住居を築いた。すぐ近くにある石切場から切り出された石だ。当時スイスでは石を積むためには石切工の資格が必要だったので、ユングはわざわざその資格を取った。組合(ギルド)にも入った。その家屋を建てることは、それも自分の手で築くことは、彼にとってそれくらい重要な意味を持っていたんだ。母親が亡くなったことも、彼がその家屋を造るひとつの大きな要因になった」

タマルは少し間をおいた。

「その建物は『塔』と呼ばれた。彼はアフリカを旅行したときに目にした部落の小屋に似せて、それをデザインしたんだ。ひとつも仕切りのない空間に生活のすべてが収まるようにした。とても簡素な住居だ。それだけで生きていくには十分だと彼は考えた。電気もガスも水道もなし。水は近くの山から引いた。しかしあとになって判明したことだが、それはあくまでひとつの元型に過ぎなかった。やがて『塔』は必要に応じて仕切られ、分割され、二階がつくられ、その後いくつかの棟が付け足された。壁に彼は自らの手で絵を描いた。それはそのまま個人の意識の分割と、展開を示唆していた。その家屋はいわば立体的な曼荼羅(まんだら)として機能したわけだ。その家屋がいちおうの完成を見るまでに約十二年を要した。ユング研究者にとってはきわめて興味深い建物だ。その話は聞いたことがあるか? 」
牛河は首を振った。
「その家はまだ今でもチューリッヒ湖畔に建っている。ユングの子孫によって管理されているが、残念ながら一般には公開されていないから、内部を目にすることはできない。話によればそのオリジナルの『塔』の入り口には、ユング自身の手によって文字を刻まれた石が、今でもはめ込まれているということだ。『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』、それがその石にユングが自ら刻んだ言葉だ」

タマルはもう一度間をおいた。
「『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』」と彼はもう一度静かな声で繰り返した。
「意味はわかるか?」
牛河は首を振った。
「いや、わからない」
「そうだよな。どういう意味だか俺にもよくわからん。あまりにも深い暗示がそこにはある。解釈がむずかしすぎる。でもカール・ユングは自分がデザインして、自分の手で石をひとつひとつ積んで建てた家の入り口に、何はともあれその文句を、自分の手で鑿を振るって刻まないではいられなかったんだ。そして俺はなぜかしら昔から、その言葉に強く惹かれるんだ。…
(新潮社、2010.4、p503-505)

ユング自身の手によって刻まれた言葉ですが、実際の原文はラテン語の「VOCATUS ATQUE NON VOCATUS DEUS ADERIT」で、ギリシャのデルフィ神殿で行われていた神託の一節の引用になります。ユングはこの言葉がお気に入りだったようで、小説中にある「塔」の他に、ユングの自宅玄関の入口の上や、ユング自身が眠っているユング家の墓石にも同じ言葉が刻み込まれています。

この言葉は、通常「呼ばれても呼ばれなくても神はいる」と訳されるようです。小説中にある「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」という解釈は、どちらかといえばあまり一般的でないように思います。 とはいえ小説ではこの箇所の直後、タマルが牛河を凄惨に殺害する場面になり、「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」という言葉の暗示するところが強い印象を残します。この言葉は、この引用箇所のある第25章の小タイトルにもなっています。

ユングの『塔』のエピソードについては、ユング死去の翌年となる1962年に出版された自伝『思い出・夢・思想』(邦訳タイトル『ユング自伝』)に、まる一章を割いて詳しく語られています。石材による制作が自分自身の成長と重なる過程は、ユングと石との間にひとつの協同関係があることを表しています。 『思い出・夢・思想』には、この他にも様々な石に関するエピソードがあります。そのうちの幾つかを次にご紹介します。

(以下準備中)

ユング心理学研究会

ユング心理学とその思想の普及、ならびに心理学、哲学、宗教、芸術、文学などの学際交流を目的としたリベラルアーツのサロン的雰囲気の集まりです。 2004年7月に発足し年10回開催してきた セミナーは、2012年12月で85回になりました。なお、2012年11月よりセミナーと並行し、新たにユング読書会が発足しました。

URL : http://jung2012.jimdo.com/

浅草で100年。白田石材店HPではお墓や石のことに加えて地元のかくれた名所や四方山話など、浅草発の温かな情報をお伝えします。COPYRIGHT ©Hakuta Sekizaiten. ALL RIGHTS RESERVED.