赤坂の静寂が染渡る
歴史ある寺院です。
澄泉寺は、元和元年(1615年)に慈称院唯光大和尚によって武州豊島郡江戸櫻田(現在の櫻田門、警視庁のあたり)に起立されました。
その後、寛永三年(1626年)に江戸城拡張工事にあたって移動を余儀なくされ、現在の赤坂霊南坂の地に移ってきました。
江戸期には塔頭3ヵ寺を擁し、真宗高田派の触頭となっていました。
アメリカ大使館やANAコンチネンタルホテル東京等に囲まれているため赤坂の中央に位置しながら静寂が保たれている寺院です。
ご本尊は、阿弥陀如来木立像で平安時代中期の恵心僧都の作です。
その他、鎌倉時代後期に作られた親鸞聖人木坐像と聖徳太子孝養木像を護り今日に伝えています。
墓所には東京都指定旧跡になっている、林靏梁墓があります。
林靏梁墓
林鶴梁は幕末から明治始めの儒学者です。名は長孺。通称を伊太郎といい、文化三年(1806)旗本の家に生まれました。
若いころは博徒などと交わったが、のち学問に志し、古文を長野豊山、経書を松崎慊堂に師事し研鑽を積みました。
弘化二年(1845)甲府徽典館の学頭となり、ついで遠江国中泉(静岡県磐田市)の代官に任命されました。
凶年には、救済と備蓄の法を講じ、大いに治水に効がありました。出羽國幸生(山形県寒河江市)の代官に転じたあとは、鉱山の開発を行い、銅山の監督などに精励しました。
嘉永六年(1853)、ペルー来航に際し鎖国政策の強化を説きました。文久元年(1861)、降嫁した和宮付きとなりましたが、
対外施策問題で幕府首脳部から排斥され野に下りました。その後も各藩の志士と交わり尊皇攘夷を唱えました。
維新後も新政府には仕えず、麻布に学塾「端塾」を開き教育に従事しました。
著書に「鶴梁文鈔」「紀舟行」「四得録」などがあります。
明治十一年(1878)一月六日、七十八歳で没しました。墓石には、鶴梁林先生之墓とあります。
林靏梁墓の他に、映画監督の五所平之助や講談師の四代目神田伯山などの著名人の墓があります。
気軽にお参り出来るお寺であるよう心掛けておりますので、春秋のお彼岸、お盆の合同法要には
いつも満堂のお参りをいただいております。
正式名称 | 静龍山 淸淨樂院 澄泉寺(せい・りゅう・ざん しょう・じょう・らく・いん ちょう・せん・じ) |
宗派 | 浄土真宗高田派 |
住所 | 東京都港区赤坂1-11-3 詳細地図(google MAP)はこちら |
施設 | 本堂、客殿、墓所、駐車場 |
開山 | 1600年 |
アクセス |
東京メトロ銀座線・南北線 「溜池山王駅」より徒歩10分 東京メトロ日比谷線「神谷町駅」より徒歩10分 |