浅草・三社祭

浅草・三社祭

当社は、浅草・三社祭の氏子にあたる地域にあります。

三社祭の実際の様子を、地元からブログ等にてご紹介できればと思います。

ここでは三社祭の概要について、歴史的経緯を含めご紹介致します。

三社祭関連の各種公式ホームページへのリンク集も末尾に設けました。  

浅草・三社祭 浅草・三社祭

三社祭の起源 (平成23年3月10日)

浅草の「三社祭」は全国的に有名なお祭りでありますが、観音様のお祭りと思われている節も少なくありません。それも無理からぬことで、浅草神社(三社権現)の主祭神は、推古天皇36(628)年の3月18日朝、隅田川で浅草寺の御本尊である観音像を水底から引き上げた漁師の兄弟と、篤くお祀りした郷の司(村長)で、それぞれ、檜前浜成・竹成、土師中知の三柱であるからです。

その祭礼である三社祭では、それぞれの祭神が本社神輿(宮神輿)に遷御し、現在の氏子四十四ヶ町を勇壮に担ぎ渡される(渡御される)のがメインの行事となっています。

しかしその原型は、江戸期以前から明治の神仏分離まで、三月十八日の浅草寺示現会と一体に行われていた『船渡御』(舟祭)にありました。

その概要は、宮神輿三基の観音堂御籠と、浅草見附(今の浅草橋付近)辺りまでの宮神輿渡御と山車の行列―柳橋付近から一基づつ舟に載せられ、僧・神職・神楽を載せた供奉の舟とともに川を遡り、駒形堂・花川戸付近で宮神輿を上陸させ、観音像示現のエピソードをしのぶというものでありました。

三社祭礼は、正和元(1312)年から隔年で、本祭は船渡御、小祭は庭渡御(浅草寺境内地や近接の町への神輿渡御)として斎行されたが、船渡御はしばしば途絶し、明治の神仏分離以降は完全に浅草寺・三社権現が分離された上、三月十八日の船渡御は廃され改暦とあいまって、氏子各町への宮神輿渡御を中心とした「五月の夏祭り」へと変化していきました。

天保9(1838)年刊『東都歳事記』より、三社祭船渡御の様子 天保9(1838)年刊『東都歳事記』より、三社祭船渡御の様子

天保9(1838)年刊『東都歳事記』より、三社祭船渡御の様子

近年になって、宮神輿三基の観音堂御籠が、三月十八日の浅草寺示現会前後になされる「堂上げ」「堂下げ」が、五月の例大祭のプロローグとして行われ、浅草寺一山僧侶出仕による読経の御供養、三社権現社神職による祝詞の奏上という神仏分離以前の祭礼の形をしのばせる厳かな儀式として復活されています。

また、平成24(2012)年3月には、三社祭斎行七百年を記念した『船渡御』の復活も計画されています。

(川西崇行:早稲田大学講師) 協力/市街地寺院研究会

「平成の舟渡御」に臨んで ―「古式」の継承・様式の美について― (平成23年3月18日)

本日、堂下げから、氏子町域を巡幸し、隅田川に船を並べ、駒形堂での法要、神社還御までを、要所要所で奉拝した。

氏子町域を巡幸であるが、これは予想したとおり、「山車」行列であった。
宮神輿本体は、板瓔珞を外して錦の帷と神鏡の設え、篠竹と細引で結界され、箱車の袴を履き、箱車の四方には、浅草寺の山形と三社大権現の三網紋が白抜きに配された紫の幔幕が回され、曳かれていく。前後の担ぎ棒の付近には海老茶色の奉賛会の半纏を被った人々がつき従う。

行列のあらましは、触れ太鼓・太鼓山車、日月幡、「三社大権現」の大幡、舞楽装束一名、幌武者一名(平公雅あたりに擬したか?)、一団の稚児行列(十人童子か?)などが先導し、次いで、各宮神輿の一団―高張提灯を一対、四神剣を一本づつ掲げ、幣や供奉の僧・神職に伴われ、神輿が進む。時に神楽の屋台(山車)、太鼓山車が挟まりながら、三基の神輿のあとを、残りの四神剣一本に先導され「福聚の舞」の山車が進む形であった。

過日の記事で「かつての山車列を意識しているのでは」とした推理はほぼ正解であったようである(写真1・2)。

吾妻橋西詰付近での三之宮の行列吾妻橋西詰付近での三之宮の行列 吾妻橋西詰付近での三之宮の行列吾妻橋西詰付近での三之宮の行列

(左:写真1・右:写真2) 吾妻橋西詰付近での三之宮の行列

この行列が、かつての南方向・浅草橋の御旅所までの行列の「代用」(前回記事の(2))として、三社権現の氏子各町を大きな範囲で巡幸したわけであるが、巡幸経路の総延長が長きに過ぎ、かつ、事前に案じたとおり、主要道路・幹線道路との交差点で行列が寸断され、予定よりおよそ約30分程遅延して、宮神輿と神輿を船上で供奉する者は花川戸防災桟橋まで、それ以外の先導供奉船乗船者、三種の寺舞供奉、他関係者の乗船は吾妻橋西詰の水上バス乗場桟橋からとされていた。

これ以降、「舟渡御」の目玉である、隅田川巡幸(前回記事の(3)(4))となるのであるが、今回は二箇所に分けた乗船の段取りがうまくいっていたのかどうか。吾妻橋の客船桟橋には定期船(水上バス)が頻りに発着し、供奉船数隻への寺舞・囃子などの桟橋接岸が度々中断される。水上では乗船の済んだ船が隊列を組むべくまばらに待機し、また乗船を待つ船の周辺に祭礼と関係のない小船舶などが紛れ込み、警戒船に交通整理されるなどしていた。この滞留・待機の時間は、雨交じりの当日、最も長く感じられた時間である。(写真3・4)

当日の隅田川:左に大型船、右に供奉船吾妻橋客船桟橋に接岸する供奉船 当日の隅田川:左に大型船、右に供奉船吾妻橋客船桟橋に接岸する供奉船

(左:写真3)当日の隅田川:左に大型船、右に供奉船
(右:写真4)吾妻橋客船桟橋に接岸する供奉船

何回も接岸離岸を繰り返しながら、寺舞「金竜の舞」の乗船が終わり、ようやく船団の体裁が整うようになり、北に遡上しながら形を整えた。 暫くして、言問橋北で南に反転した船団は、一回下流方向にお披露目され、一般の祭礼見学者にはこちらがメインに映ったようである(注:南下する往路を見物して三々五々帰る観光客が少なくなかった)。(写真5・6・7)。

舟祭礼の船団宮神輿(台船三艘)寺舞などの供奉船 舟祭礼の船団宮神輿(台船三艘)寺舞などの供奉船

(左:写真5)舟祭礼の船団(中:写真6)宮神輿(台船三艘)(右:写真7)寺舞などの供奉船

船団は両国橋手前で再度北に反転し、本来・古式の漕ぎ上げのルートに入った。しかし、祭礼全体の進行、駒形橋際での上陸困難を意識したものか、駒形橋西南河岸での宮神輿の上陸は予定より早いくらいであって、舟祭礼自体は往路(南行)より復路(北行)早く終えられた感がある。

肝心の駒形堂での法要((前回記事の(5))であるが、先導で供奉していた浅草寺執事長を導師として、各宮神輿供奉の僧職が入堂、列讃を行い、その後、三社権現総代らや三社権現宮司・禰宜らが後から入堂。普門品一巻と「南無観世音菩薩」「南無三社大権現」「南無馬頭観世音菩薩」(注:駒形堂本尊)の順でご宝号が唱せられ、三社宮司らが退出。  その間、宮神輿は一之宮が堂前交差点の三角州の部分、二之宮三之宮は駒形橋西南路上にあって、聊か荘厳を欠く感があった。(写真8・9・10)

駒形堂正面の一之宮駒形橋路上の二之宮・三之宮駒形堂での法要 駒形堂正面の一之宮駒形橋路上の二之宮・三之宮駒形堂での法要

(左:写真8)駒形堂正面の一之宮(中:写真9)駒形橋路上の二之宮・三之宮(右:写真10)駒形堂での法要(三社権現宮司・禰宜の昇殿)

その後、三基の宮神輿は、並木町の通りを移御され、雷門前から、六本の「三社権現社」の大幟を先導に、一之宮・二之宮・三之宮の順で、雷門・宝蔵門(仁王門)をくぐり、観音堂正面で正しく東に方向をかえ、三社権現の境内に戻って行く。もう夕闇深い時刻である。 (写真11)

観音堂前に担がれてきた一之宮 観音堂前に担がれてきた一之宮

(写真11)観音堂前に担がれてきた一之宮


以上のような運びで大過なく、久方ぶりの舟祭礼は無事終えられた。 まず、行列であるが、神紋の入った大幡、四神剣、荘厳豊かな宮神輿など、通常の(戦後の)五月祭礼の渡御よりも一層風情のあるものに思われた。
同様に、舟渡御(舟祭礼)も、船舳水際の紺の幔幕・寺紋社紋の江戸紫の幔幕、錦の幡、紫の素絹に緋朱の袈裟、赤・白・浅葱・御納戸の神職装束、色彩の美と、神輿の荘厳が相俟って、感無量であった。これは駒形堂での法要でも同様である。

しかし、いろいろ考えるべき点も散見されたように思われる。
一つには、交通整理である。もう少し積極的な交通抑制・広域規制があってもよかったように思われる点である。祭礼の流れが損なわれないように交通規制が為れればいいのに、感じられた。
二つには、水上に移行する際の問題である。半官半民といってよい定期船・水上バスのダイヤを少し融通する等(祭礼関係の船一艘宛の乗船が終わる迄、桟橋付近で待機している水上バスの姿が度々であったから、直の関係者のご厚意には感謝のみである)、祭礼の断絶感をなくす工夫が求められよう。
さらに三つ目としては、船そのものの問題である。ある関係者から「和船」と聞き及んでいたものの、実際は樹脂製の漁船・釣船・観光船、金属製の台船等であった。紺と紫の幕も、ある意味で「苦肉の策」であったことがしのばれる。
これだけの多数、かつ大型の各種和船を用意することは大変であろうし、また操船・乗り降りなどに技術的・法的困難もあるであろうが、有名な『東都歳時記』の挿絵(前掲)や他の図書・絵図にもあるように、舳先のある和船に宮神輿が分乗、あちらこちらに幡の立ち一層華やかな船団をかたちづくる「古式」の雄姿がみられるのであれば、より荘厳を極めた祭礼なることであろう。
(この点は、毎年の宮神輿のトラック移動の様子の悩ましさにも通じるものがある)

関係者の皆さんのご尽力あってこそ、今回の舟渡御の盛儀があり、それを目にする好機を得たわけで、上のように聊か重箱の隅をつつくようなことを筆に残すのは躊躇われたが、2028年(16年後)には、浅草寺の開創千四百年の記念の年が来る。そこで、聊か個人的な見解を少々記しておきたい。
開創千四百年では、千三百五十年の記念の折や、一昨年の本堂大修繕完工のように御前立本尊御開帳はじめ、今回再興された舟渡御が斎行されるかもしれない。それを視野にいれて、例えばまちづくりの点からは、寺社周辺の景観や水辺の景色、堤防等の形状の問題の保全・整備が、祭礼執行の点からは、より「古式」に即し、絵になる、荘厳な儀典を詰めていくことが求められるのではなかろうか。

末筆ながら今一度「舟渡御復活」の難問に立ち向かった関係者のご苦労を深く労いたく存じ上げるとともに、よりよい浅草の発展・歴史の継承の為に、一層のご奮発をお願い致したい。
  ちなみに「古式」=硬直・教条的に守旧の姿勢である必要は全くない。時の流れの中で欠けた佳きものがあればこれを「古式」の体裁・文脈で補い、また「古式」に潜む工夫を再発見するのが「古式」継承の心性ではなかろうか。
また新たに何かを起こすにせよ、古代から近世・近代にいたるまでの、当地ならではの豊かな地域の歴史的風土・文脈の中にあって、急激に古びない、一過性に終わらないものを創出していくという「歴史的継続・蓄積」「(真に歴史的な)様式美」についての考究が必要となってこよう。
その意味合いからすれば、今回の舟渡御の再興の試行錯誤は、今後のそうした考究につながる大きな「宝の山」であるといえよう。

(川西崇行:早稲田大学講師) 協力/市街地寺院研究会

平成の舟渡御」雑考 ―「古式」と「今」の狭間で―(平成24年3月10日)

間もなく、正和元年(1312年)に神託あって創始された三社(浅草神社)祭礼七百年を記念して、舟渡御(舟祭礼)が斎行される。
江戸期でも経費のかかる祭礼であるため、しばしば途絶し、また幕末以降は、戦後、昭和33年(1958年)浅草寺本堂再建の奉祝行事として一回行われたのみで、舟祭礼の経験を今に伝える資料や口伝は少ない。
浅草神社の公式パンフレットにも今回の斎行に当たっての、考証や資料難について言及があるが、確かに舟祭礼の再現には関係者の数年来の試行錯誤やご尽力あってこそのものと頭が下がる。
 
しかしまた一方で、『東都歳時記』(天保9年(1838年)刊)に詳述されている(註:明治以前の旧三月の三社権現大祭。隔年の本祭は舟渡御、小祭は浅草寺境内地や近接各町への庭渡御として斎行とされた)の記述、昭和の舟渡御、今次の舟渡御は、同じ次第で行われない部分もあることは、一応記しておかねばならないと思う。

明治以前、三月十八日の浅草寺示現会と一体に行われていた舟渡御では『東都歳時記』等の記述による限り、以下のようであったらしい。祭礼の概要は、

(1)宮神輿三基の観音堂御籠(十七日晩から十八日朝)[=再興された現行の「堂上げ」「堂下げ」に相当]
(2)十八日朝、観音堂から出た宮神輿は、浅草見附(今の浅草橋・柳橋付近)辺りまで各町山車を伴った行列を為し
(3)浅草見附・柳橋付近から隅田川に向けて宮神輿一基づつが、浅草に縁のある大森付近の漁師の手助けを得つつ、舟に載せられ
(4)宮神輿の三艘の舟は、僧・神職・神楽を載せた供奉の舟とともに川を遡上し、
(5)駒形堂ないし花川戸付近で宮神輿を上陸させ、浅草寺御本尊の観音像示現の往古をしのぶ というものである。
昭和の舟渡御については確かに資料難で、その全容が判然としがたいので、ここでは上記の『東都歳時記』を江戸期の斎行次第の例(=古式)として考えることにしたい。

(1)については上述の通り、現在はほぼ古式の意義を継承した形で毎年行われており、本年も同様である。
(2)以下について、今回の次第を見る限り、若干の変更があるようなので、以下に述べる。
まず(2)の行列である。
江戸期の舟祭礼では、記録による限り、庭祭礼(浅草寺・三社権現社付近)を伴っておらず、今回の十八日の氏子四十四ヶ町の渡御はみられない。が、今回の次第でも「山車」との記述があって、古式を意識したものであることは十分理解できる。
以下は推量であるが、おそらくは、明治以降の氏子町域の拡張(=現在の氏子四十余町にほぼ等しい範囲)と、浅草御門(=浅草橋)までの大行列の実施の困難が変更の原因ではないかと思われる。警察所轄の範囲、三社様同様に明治以降確定した他神社の氏子各町の分布、主要街路の通行止の困難など容易に推測できる。

また(2)の終着点・乗船位置の(3)の問題も、深刻であったのであろう。
(3)の浅草橋・柳橋付近には係留中の船や、また戦後・高度成長以降に造られた所謂「カミソリ堤防」などによって、古式と同様には、水面の船に宮神輿が下せないという問題(前掲のパンフレットにも「河岸の状況」「重機を使った昇降はしたくなかった」旨が述べられている)や、水質や人手の問題(江戸期のように、水中の漁師に助けられながらという訳にもいかない)も無視できない。さらに、数年前に江戸開府四百年を記念して山車の祭礼が再現された「山王祭」では、背の高い山車が電線・空中架線に接触することを防ぐための措置が大変であったと仄聞しているので、そういう配慮も働いたのかもしれない。
この(2)(3)の様子については『東都歳時記』に
この日旧例として、六郷大森等の村々より猟船出し、彼地の漁人来りて神輿を供奉す。
昔、宮戸川の辺に住し漁人後に大森等へ移る、故にいにしえを忘れざるの意なり。
其余諸方の猟師船にて供奉す。又産子の町々よりは山車練物等に善美を尽し、一時の壮観を為す。
と記され、各町の山車の順序なども詳細に記されており、祭見物のひとつの山場であったようである。

(3)の乗船位置が変更になれば、(4)以降も変更になる。
かつては南から北への一筆書き((1)以降、南に練り(3)以降水路で北上)であったものが、花川戸地先の防災船着場(東参道桟橋)からの乗船になったためか、隅田川の言問橋・両国橋間を半ば一往復するかたちとなっている(一旦北上→言問橋北で反転南下→両国橋北で反転北上。以降は古来に同じ)。
かつては駒形堂付近か花川戸で上陸した神輿が、縁のある花川戸・東参道から、逆に水上に移されるのも、縁あってのことかとも思う。

ここまでで、神輿の移動経路の伸張、隅田川水面上の滞留時間増によって(5)の駒形堂での法楽の開始が、『東都歳時記』から得られる印象・行程の積算より遅くなっている。  さりとて『東都歳時記』にも詳細なタイムテーブルはなく、また、同書の有名な挿絵を仔細にみると、神輿は大ぶりの瓔珞などを外して神鏡をつける仕様の上に、軒には提灯が全周にめぐらされていることを考えると、やはり相当の時間を要したのかも知れない(但し出光美術館蔵『江戸名所図屏風』や『寛文縁起』には提灯は付されていない。付言すれば『東都歳時記』、前出『江戸名所図屏風』(寛永年間初期)の神輿の姿を観察すると、晒を捲いてはいないが、大ぶりの装飾は外し錦緞子の幔幕が掛けられ、その上から神鏡が飾られているように見える)。
(4)の、隅田川での供奉船のレイアウトや、神楽の詳細も苦心の跡がしのばれる。
供奉船に(戦後復元・創作された)浅草寺寺舞を伴わせるのは成程「びんざさらの神事」「神楽の田村八太夫衆」が供奉とある厳密な意味で「古式通り」ではないかもしれないが、華やかでかつ筋の通った荘厳であろう。
(5)の駒形堂での法要・法楽のあと、再度、宮神輿は渡御され、並木町→雷門→浅草寺本堂→三社様と移動するようであるが、このあたりに関しては『東都歳時記』にも詳細がなく、かつての(2)の行列の一部を逆にした感もある。

以上、江戸期、特に『東都歳時記』の記述と、今回斎行の次第を比較してみたが、明治以降の近代化のなかの町の変化、現代の大小の諸事情によって、祭礼も古式に法って如法にということが難しくなっているなか、今回の舟渡御は、相当の苦心と工夫の「合わせ技」で実現したのであろうことが、こうした仔細な観察からもわかる。
江戸後期の狂歌では「神輿深川、山車神田、だだっぴろいは山王様」というものが残っていたりもするが、祭礼の歴史の古さ、親しまれ方では三社祭のほうが少なくとも江戸期初期、江戸の庶民の間においては優位であり、前掲の江戸図屏風などの中に祭礼が大きく描かれているのは、神田祭でも山王祭でもなく、三社祭なのである。

(川西崇行:早稲田大学講師) 協力/市街地寺院研究会

三社祭関連各種公式ホームページ

■本尊示現会(浅草寺)http://www.senso-ji.jp/annual_event/honzonjigene.html

■浅草神社御由緒(浅草神社)http://www.asakusajinja.jp/asakusajinja/yuisyo.html

■三社祭とは(浅草神社)http://www.asakusajinja.jp/sanjamatsuri/yurai.html

■三社祭日程(浅草神社)http://www.asakusajinja.jp/sanjamatsuri/nittei.html

■三社祭斎行七百年記念舟渡御斎行主旨http://www.asakusajinja.jp/news/funasai2012/

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